河原兄弟

神戸を学ぶ 神戸の伝説

河原兄弟の伝説(三宮神社)|兄弟っていいね♪‥神戸史跡巡り【中央区】

2021-12-03

神戸元町、大丸のすぐそばに三宮神社があります。街のど真ん中にある小さな小さな神社ですが、いつ訪れても参拝者がたくさんいます。

江戸時代末期、三宮神社の前で神戸事件が起こったりもしました。

そして時代をもっとさかのぼり、源平合戦のエピソードも伝わっています。今回は『河原兄弟の塚」という伝説を紹介しますね。

河原兄弟の伝説を3行でまとめ

  1. 時は平安、源平合戦
  2. 源氏の武者『河原兄弟』が平家の砦に最初に突撃。
  3. その功績がずっと語り継がれている。

河原兄弟伝説のInstagram

インスタではダイジェストで紹介してます♪

河原兄弟伝説の史跡

河原兄弟の塚

三宮神社境内の植え込みの中に碑石があります。『従是河原兄弟塚道』と彫っているみたいだけど、松と梅で読めませんでした。

河原兄弟の碑2 河原兄弟の碑1

河原霊社

三宮神社の本殿の裏にあるそうですが、気づかずに境内の違う社を撮影していました。

撮影できたら写真アップしますね。

2020年3月13日追記

河原霊社を撮影してきました!

河原霊社

河原霊社 案内板

本殿からの行き方

本殿の右側の社務所前を奥に入ります。

↓細い通路です。正面に見える社は河原霊社ではありません。この社は通り過ぎます。

↓右手に見えるのが河原霊社です。

三宮神社 裏門

三宮神社の裏門から

↓三宮神社の裏門からだとすぐ。

河原兄弟の伝説をくわしく解説

コビー
いつ頃の話?
今から836年前、平安時代末期の源平合戦のお話だよ。
なお

寿永3年(1184)2月。平家は『生田の森』に堅固な砦を築いていました。大将は平家の中でも「出来る男」で有名な平知盛。

これを攻める源氏の大将は、あの頼朝の弟であの義経の兄である源範頼。有名すぎる兄弟に挟まれてちょっと影が薄い人かも。

河原兄弟ってどんな人達?

さて、源氏軍に河原高直と河原盛直という兄弟がいました。武蔵の国(今の埼玉県あたり)からはるばる源氏軍に加わってます。

兄弟は手柄をたてて故郷に錦を飾ることを切望していました。

家来がたくさんいる武将なら武功をたてやすいですが、兄弟二人きりで戦いに参加しているので高直と盛直が手柄をあげるのは難しそうです。

河原兄弟は何をしたの?

そこで兄の高直は平家方の生田の森の砦に一番最初に切り込んでいくことを考えました。

先陣を切るので手柄になることは確実ですが非常に危険な役目ですね。

で、弟の盛直に手柄の証人になって味方や故郷に伝えてくれと頼みます。兄として弟には生き残ってほしいという想いもあったのでしょう。

盛直は反発します。2人きりの兄弟なのだから自分だけが生き残っても仕方ない。一緒に先陣を切ると言い張って譲りません。

証人は絶対に必要なので、下男にその役目を命じて兄弟は生田の森に切り込んでいきました。

家来はいなくても下男はいるんですね。

平家方はたった2人で切り込んできた河原兄弟を「敵ながらあっぱれ」と褒めたたえ、最初のうちは反撃しなかったようです。

平家物語の脚色も入っているだろうけど、なんか平家って余裕こきすぎなのでは‥ 。

弓が得意な河原兄弟の猛攻に、これはヤバイとようやく平家方も反撃。

平家方にも弓の名人はいます。

備中の国(今の岡山県)出身の真名辺五郎が放つ矢に、兄の高直が倒れ、続いて弟の盛直も倒れました。

でも時はすでに遅し。河原兄弟の特攻を知った源氏軍の士気は最高潮に高まり、生田の森の砦は崩され平家軍は敗退しました。

余裕こいてなかったら歴史は変わったのでしょうか。

河原兄弟の願いは叶ったの?

コビー
河原兄弟は望み通り、故郷に錦を飾ることは出来たん?

もちろん。源氏の総大将、頼朝も2人の活躍をしっかり聞いたみたい
なお

源平の戦いが終わった後、源頼朝は高直の子供に生田の庄(領地みたいな土地)を与えました。

河原兄弟の菩提を弔うために『報恩寺』というお寺と、そのお寺を守るための神社『小野八幡神社』を建立したのです。

すごい名誉ですね。

小野八幡神社は神戸市役所の近くに今も鎮座しています。

そして土地の人たちによって、河原兄弟の塚と2人の馬の馬塚も生田神社の近くに築かれました。

河原兄弟と三宮神社との関係

コビー
生田神社と三宮神社とでは少し距離があるけど、なんで三宮神社に河原兄弟の塚や社があるん?
なにせ長い時を経ているから、三宮神社に落ち着くまでに色々あったみたい。
なお

戦国時代に焼け落ちた報恩寺

まず、報恩寺について。

時代は下って天正8年(1580)、池田信輝達による花隈城攻めの時に報恩寺は焼け落ちてしまいます。

お寺の僧侶たちによって本尊の阿弥陀如来像や宝物は持ち出され、寛永20年(1643)、二つ茶屋村の間人(はしうど)市左衛門という人に譲られました。

今も間人家は神戸にあって阿弥陀如来像が伝わっているとか‥。すごい!

寛永20年といえば徳川3代将軍家光の頃です。

河原兄弟塚には松尾芭蕉も訪れた

この時点で残っていた河原兄弟の痕跡は『小野八幡神社』『河原兄弟の塚』『馬塚』。元禄元年(1688)徳川5代将軍綱吉の頃、松尾芭蕉が河原兄弟の塚に訪れたようです。

さらに時代は下って文化8年(1805)徳川11代将軍家斉の頃には、塚はすっかり風化してしまって文字も読めなかった様子でした。

河原一族の子孫が塚を改築&移転

そこで京都に住む子孫の河原友七郎実直が石碑を改造して、城ケ口墓地に移しました。城ケ谷墓地は追谷墓地(神戸市中央区山本通)に移転したので、そこに今も石碑があるそうです。

三宮神社ばかりにフォーカスしていたので、ここはまだ訪れていません。機会があればぜひ確認しに行きたいですね。

地元の人達が河原社を建立

明治時代に入ると元々塚のあった場所は盛り土も目印の松も取り払われました。

今の三宮町3丁目のあたり、三宮神社から少し離れたところに『従是(これより)河原兄弟塚道』という石の道標だけが残されました。

大正時代に入ると、その近くで商売をしていた芹沢大次郎という商人が、河原兄弟の故郷である埼玉県に何度も訪れて河原兄弟を祀った河原神社を発見。

その神社から分社をして、大正11年4月、三宮町の有志で塚のあったあたりに河原霊社を建立しました。

コビー
子孫でもない人たちがわざわざ私費で社をたてたん?
それだけ 河原兄弟の伝説は地元で語り継がれていたのかもね
なお

ついに三宮神社に移動

昭和に入ると都市開発の波にもまれて、昭和33年に東北へ100mほど移転、そして昭和47年に三宮神社の境内に移された‥というわけです。

前にも書いたけど、河原霊社は三宮神社の本殿の裏手にあって、その気で探さないと分かり辛いです。

かなり手狭な境内なのに…。

写真撮れなかったのが本当に残念。近いうちにまたリベンジです。

河原兄弟の伝説についてのまとめ

神戸は源平合戦の史跡が多いですが、河原兄弟の塚ほど地元の人に愛された伝説も珍しいのでは?

命がけで名をあげて故郷に錦を飾ったことはもちろん、「弟を生き残らせたい」という兄の気持ちと「兄だけを死なすわけにはいかない」という弟の気持ちが人の心を打つからなのでしょうね。

神戸大丸のすぐ近くなので気軽に立ち寄ることができますよ。お近くに行った際にはぜひぜひ訪れてくださいませ。

この記事の参考文献

この記事を書くために参考にした本はこちらです。

田辺眞人著・神戸新聞総合出版センター
兵庫ふるさと散歩14・神戸新聞社編

河原兄弟の伝説地への行き方

 

場所 三宮神社境内
住所 650-0021
神戸市中央区三宮町2-4-4
(078)331-2873
地図
アクセス 【飛行機】神戸空港から車で約20分

【新幹線】新神戸駅から車で約10分

【JR・阪神】元町駅から徒歩で約3分

【JR・阪急・阪神】三宮駅から徒歩で約3分

【神戸市営地下鉄(海岸線)】旧居留地・大丸前駅3番 出口より南へ徒歩すぐ

【神戸市営バス・2・92系統】三宮神社前 下車すぐ

【高速道路から】阪神高速神戸線 京橋出入口 旧居留地・元町(大丸神戸店前)方面へ

駐車場 近くにコインパーキングはたくさんありますが、駐車料金が高めの地域です。

パーキングによって値段が全然変わってくるので注意!

大丸駐車場だと1時間600円です。平日だと5000円以上のお買い物で3時間無料になりますよ。

 

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