兵庫区にある『清盛塚』。
昔から清盛のお墓だと伝えられていましたが、大正時代の発掘調査では遺骨はみつかりませんでした。
遺骨はどこに消えたのか?
そもそも本当に清盛のお墓だったのか?
詳しく調べてまとめてみました。
清盛塚の伝説をザクっとまとめ
ポイント
- 兵庫区切戸町にある十三重ねの石塔『清盛塚』
- 清盛の遺骨が納められていると伝えられ大切にされてきた
- 大正時代に発掘調査すると骨が消えていた?
清盛塚伝説のInstagram
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清盛塚伝説の史跡
清盛塚周辺
兵庫区の切戸町の一角にある清盛塚。ものの本によるとこの辺りは昔から八棟寺跡と呼ばれているらしいです。
地元がこのあたりの方、本当にそう呼ばれているならコメント欄で教えてください♪
清盛塚の史跡石碑
神戸の大切な史跡の証拠!
清盛塚の説明文
過不足のない分かりやすい説明文です。
清盛塚十三重石塔
清盛塚といえばこれ!
かなりの高さで写真に収めるのに苦労しました。
作られたのは清盛が亡くなった100年後くらいの鎌倉時代(1286年)。
800年以上前の建造物にしてはとても綺麗です。
ずっと大切にされていたのでしょうね。
清盛塚石塔の足元の雰囲気ある石
石塔の足元には丸みを帯びた石に『平清盛公』と彫られています。雪だるまみたいな石も。
いつからここにあるのだろう。
時間の流れを感じさせる何気ないモノをみると、ワクワクゾクゾクしてきます。
『令和』に入ってからのモノだと笑っちゃいますけど。
清盛塚の清盛像
なんとも想像力を掻き立てられる清盛像。
1968年に神戸出身の彫刻家、柳原義達氏によって作られました。
清盛さん、どんなお顔だったのでしょうね。
私の想像では、目鼻立ちが大きくくっきりした顔立ちですが、この像もそんな感じです。
清盛塚をくわしく解説
清盛塚移転騒動とは?
清盛塚はもともと今の場所より10mほど南西にありました。
大正10年(1921)に神戸市の都市計画で移転が必要になったけど、『清盛様のお墓を動かすとは何事ぞ!』と地元ですごい反対運動が起こったんですね。
で、当時の内務省が東京帝国大学教授の黒板勝美を派遣して、清盛塚の調査を行いました。
結果、『清盛のお墓かどうか断定できない』ということで移転を強行します。
で、移転の際に清盛塚の発掘調査も行ったけど遺骨らしきものは発見されませんでした。
反対運動をしていた方々はどんな気持ちだったのかな。
ガッカリしたのか、それとも本当のお墓を動かしてないからホッとしたのか‥どうなんでしょうね。
清盛塚がお墓だと思われていた理由は?
清盛塚の十三重石塔は誰がなんのために建てたのかはわかっていません。
でも石塔には弘安9年2月という年月が刻まれているので、鎌倉時代に建てられているのは確かです。
叡尊(えいそん)というお坊さんが、弘安8年(1285)8月14日に兵庫で「石塔供養」に臨んだという記録が奈良の西大寺にあります。
この石塔供養は清盛塚のことじゃないか‥と近年の研究で言われています。
で、江戸時代の初期から、『鎌倉幕府執権・北条貞時が清盛の供養のため建立した』という伝承が流れました。
さらに8代将軍吉宗の時代に出版された観光ガイドブックみたいな『兵庫名所記』に『平清盛の遺骨が納められている』と紹介されたのです。
これで十三重石塔=清盛塚=清盛のお墓という図式ができたようですね。
本当のお墓はどこにあるの?
そうなってくると本当とお墓はどこにあるの?という疑問がでてきますよね。
はっきり言ってわかりません。
『平家物語』には次のように書かれています。
清盛の遺体は京都の愛宕で火葬されて、遺骨は清盛の側近だった側近の円実法眼(えんじつほうげん)が摂津の国の経ヶ島に納めた。
この経ヶ島は清盛塚のある辺りだと考えられているので、十三重塔の存在もあって先に書いたように十三重石塔=清盛塚=清盛のお墓となったのでしょうね。
でも遺骨はない。
清盛を供養したという十三重塔の伝承がミスリードになってしまって、もしかしたら清盛塚周辺のどこかに本当の清盛のお墓があるのかもしれません。
そして、もう一つの文献の記述をクローズアップしてみます。
鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には次のように記述されています。
清盛の遺言によって遺骨は播磨国山田の法華堂に納められた。
播磨国山田は今の西舞子町の山田川沿いです。アジュール舞子、明石海峡大橋の少し西側でとてもとても景色がいいところです。
法華堂らしきものはありません。
今の清盛塚周辺よりも海の景色は最高に良いので、このあたりに清盛が眠っているならロマンチックですね。
でも吾妻鏡にそう書かれているのなら、それらしい史跡が残っていてもよさげなのに何もないのはちょっと腑に落ちない。
まあ、いずれにせよ神戸に眠っていると信じることにします。
八棟寺の起こりは夢枕に立った平基盛の幽霊
平基盛が溺死したのは頼長の亡霊のせい?
清盛の次男の基盛は24歳という若さで亡くなってしまいます。
『病死』と書かれている記録もあるけど、『源平盛衰記』には馬に乗って宇治川を渡ろうとして溺れてしまったと書かれてます。
さらに藤原頼長の怨霊に祟られての溺死‥だそう。
藤原頼長(悪左府)って誰?
平家と敵対した貴族。保元の乱で死亡。性格のキツイ人だったらしく悪い左大臣ということで『悪左府』とよばれていた。幼い頃は宇治で育ったので『宇治左大臣』ともよばれている。左大臣死後も悪霊になって平家に憑りついている‥とか言われていた。
亡くなった基盛は妻の枕もとに立って「悪左府に宇治川に引きずり込まれてしまった。法華経で弔って欲しい」と訴えます。
この話を息子嫁から聞いた清盛は専用のお堂を建てて、八人のお坊さんに法華経を毎日読ませました。
このお堂が八棟寺の起こりになったらしいです。八棟寺は清盛の菩提寺とも言われていて山号は「泰平山」だったとも伝えらています。
この記事の最初にも書いたように清盛塚周辺は「八棟寺跡」と地元では呼ばれていました。
清盛とは縁の深い土地だったということですね。
清盛塚の伝説についてのまとめ
長らく神戸に住んでいますが、清盛塚を訪れたのは今回が初めてです。
思った以上に迫力のある石塔で、鎌倉時代からずっとそびえ立っていたと思うと少し胸が熱くなりました。
平家好きな方はぜひぜひ訪ねてみて下さいね。
この記事の参考文献
この記事を書くために参考にした本はこちらです。
清盛塚の伝説地への行き方
場所 | 清盛塚 |
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住所 | 〒652-0847 兵庫県神戸市兵庫区1 |
地図 | |
アクセス |
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駐車場 | イオンモール神戸南の駐車場が便利
今のところ無料で停められます(2021年4月現在) |